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医者いらず健康長寿処方箋

医学博士 井上正康(健康科学研究所所長&大阪府鍼灸マッサージ師会学術顧問)


井上正康先生は、癌や生活習慣病を「活性酸素」やエネルギー代謝の観点と、地球や生命の歴史という大きな視野で研究されている国際的研究者です。 専門書、一般書のご執筆をはじめ、マスメディアでも大活躍、「予防医療」の研究と普及に取り組まれています。

「漆黒の世界と嗅覚脳」

春の夜の やみはあやなし むめの花
いろこそみえね 香やはかくるる

(凡河内躬恒)

 
「ヒトは見かけが9割」とか「みてくれ依存症の時代」と云われて久しいが、確かに外界や人物を認識して情報を判断する視覚は素晴らしい能力である。しかし、それは光のある世界のみでの話である。暗闇を照らす手段が無かった太古の夜や漆黒の環境では、この歌の様に嗅覚が周囲の世界を知るための重要な情報収集装置であった。
 ほ乳類の小さな精子や卵子にとって、腹腔や卵管腔は途轍もなく大きな宇宙空間であり、そこで両者が出逢うのは至難の業である。しかし、悠久の生命史は両細胞を自己に適した相手を確実に識別して遺伝子を次世代に継承する仕組みを進化させてきた。精子の頭部には鼻粘膜の嗅覚受容体と類似した蛋白分子が存在し、卵子の細胞膜や表面を覆う透明膜にも精子の頭部を迎え入れる様々な分子群が配置されている。これらの認識分子群により両者が的確に結合し、一連の授精反応が進行する。嗅覚は遺伝子継承の為に結晶化された生存ソフトでもある。フェロモンを感知する嗅覚が雌雄の出会いを無意識的に制御している事もその片鱗である。
 嗅覚に関連するヒトの遺伝子は約700種類(全遺伝情報の約2%)存在し、鼻粘膜の嗅細胞は約500万個(犬では2億個)も存在する。この嗅細胞の数は男女とも免疫能の低下する20歳以降に減少していく。この嗅覚の感度は男性よりも女性の方が遙かに鋭敏である。女性には視覚と嗅覚がほぼ同等の情報として脳で統合的に処理され、対象を瞬時に見極める力がある。年頃の男女が視覚的に惹かれ合うとお互いに体臭を検知できるほど距離が近くなる。これが口臭を検知できるほどの距離になると、女性脳では無意識的に免疫的記憶が呼び覚まされる。体臭の中でも特に口臭は、配偶者として免疫学的適正を吟味するヒト白血球抗原(HLA)や組織適合性抗原(MHCA)の複合情報を含んでいる。体臭は免疫学的相性をマッチングさせるための無意識情報であり、不快と感じられる体臭とHLAの近さとは相関している。「蓼食う虫も好き好き」と言われるが、嗅覚的に惹かれ合う男女は他の四感でも魅力的に感じあう様である。フェロモン受容体として機能する鼻粘膜のヤコブソン器官(鋤鼻器)はヒトでは退化していると云われているが、女性の目隠し試験ではHLA型の遠い男性が着用したTシャツを好むこと、およびこの感覚は排卵日前後に顕著になることが確認されている。これは免疫の多様性を拡大させるための遺伝的マッチング戦略と考えられる。フェロモンは動物の種により多様であるが、無意識的に嗅覚を刺激して遺伝子を次世代へ継承する一連の反応を支援している。心地よい体臭はお互いの距離を近づけて仲睦まじくさせるが、不快臭を感じさせる相手には距離を置くようになる。嗅覚的ミスマッチが起こった場合、女性では不妊や流産に悩まされる傾向が高くなるとの報告もある。ヒトの体臭の素となる物質は汗に含まれる脂肪などの分泌物である。汗腺にはエクリン腺とアポクリン腺があるが、後者から分泌される汗には脂肪・蛋白・性ホルモンなどが多く含まれている。特に、体毛の根本に開口する皮脂腺は脂肪を多く分泌し、これが天然のファウンデーションとして皮膚や毛髪を保護している。この汗の中の脂肪などが共生微生物により代謝された排泄物が体臭となる。これらが毛髪にまとわりつくことにより、表面積が拡大されて体臭を効率よく拡散させることができる。
 有史以来、この体臭をより魅力的な情報に進化させる目的で開発されてきたのが香水である。ワキガ体質だったクレオパトラや楊貴妃は得も言われぬ魅力的芳香臭を発していたと云われているが、特別に調合した香水を体臭と混合することにより、魅力的で個性的な匂いを挑発的武器として利用してきたのが香水の歴史である。現代では様々な効果を演出する香水が開発されており、男女の関係や日常生活を深化させ続けている。アミノ酸のトリプトファンから産生されるインドールやスカトールは便臭を呈するが、これを薄めるとジャスミンや桃の香りになり、脳に作用して様々な作業の効率を上昇させる。魅力的な芳香臭も便臭と紙一重なのである。古くより媚薬として男子の熱いまなざしを浴びてきたムスクは、ジャコウ鹿に特有な誘因臭であり鹿には有効であるが、ヒトにはプラセボ効果のみで無効である。
 名だたる香水の中でもディオールの ‘ポワソン(Poison)’ は ‘毒’ の意味である。これは相手を虜にする香水のエロスを彷彿とさせる見事な命名である。古くより ‘毒でなければ薬ではない’ とか ‘名人は危うきに遊ぶ’ などと云われてきたが、生死明暗の境界を漂う根源的刺激が嗅覚脳を魅了するのであろう。

転載:月刊東洋療法246号
公益社団法人全日本鍼灸マッサージ師会

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