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医者いらず健康長寿処方箋⑯

医学博士 井上正康(健康科学研究所所長&大阪府鍼灸マッサージ師会学術顧問)


井上正康先生は、癌や生活習慣病を「活性酸素」やエネルギー代謝の観点と、地球や生命の歴史という大きな視野で研究されている国際的研究者です。専門書、一般書のご執筆をはじめ、マスメディアでも大活躍、「予防医療」の研究と普及に取り組まれています。

「口内のカンブリア菌と遺伝子の継承戦略」

 現存する全ての生物は太古から続く過酷な遺伝子継承レースに生き残ってきた強者達である。彼らの戦いでは強いから生き残れたワケではない。突然変異と自然選択の洗礼を受けながら、その時々の環境に柔軟に対応できた幸運な輩が結果オーライで今日まで遺伝子を継承できたのである。しかし、その生存戦略はカンブリア紀以来悠久の時間で鍛え抜かれた筋金入りであり、ヒトの遺伝子継承システムにも深く浸透している。ヒトが無意識的に行っている行動の大半もこの戦略的ソフトで制御されている。
 芸術作品には愛をテーマにしたものが多く、絵画や映画の中にその名シーンを観ることができる。その中でも1908年に作成されたグスタフ・クリムトの名作「接吻」は秀逸であり、世紀を超えて多くのファンを魅了してきた。恋に陥ると人はキスをしたくなるが、よく考えてみればこれは随分奇妙な行為である。口や唾液の中には無数の細菌が共生しており、ツバは汚い物の代表と考えられている。事実、ツバを吐きかけられたヒトは最大の侮辱と受け止めて激怒し、殺し合いにまでエスカレートすることもある。それにもかかわらず、何故、恋人達はキスをしたがるのだろうか?進化医学者にはどうでもよい様な疑問を真剣に考える暇で無粋な人種が多いのである。口臭は嗅覚を強く刺激するため、悪臭が強ければ百年の恋も萎えてしまうであろう。
 実は口内はカンブリア紀の地球環境に似た低酸素世界であり、そこには無数の嫌気性菌が共生している。この共生細菌の代謝産物が口臭の本体であり、虫歯菌や歯槽膿漏菌の排泄物はヘドロなみの悪臭である。口臭は友達から恋人へ移行する際に脳がパートナーの免疫力を吟味する重要な情報源なのである。この嗅覚は特に女性で優れており、パートナーとの免疫的相性をチェックする無意識的ソフトとして機能している。恋人同士のキスは一度で500万個もの口内細菌を相互交換する感染行為なのである。面白い事に、口から入って来た細菌や生体異物は抗原性を発揮せず、免疫的に排除されない事が知られている。最新の研究で、腸管粘膜には経口摂取した異物に対する免疫的拒否反応を抑制する制御リンパ球(Tレギュ)が存在し、これが食物アレルギーや花粉症などの過剰反応を抑制している事が明らかにされつつある。キスで口から入った太古の共生細菌もこの免疫抑制機構を利用しながらホストとの共存関係を構築してきた。この無意識的行為が栄養代謝や免疫防御反応をバランス良く制御しながら遺伝子継承機能として進化してきたのである。この様な免疫制御機能に加え、唾液は多彩な抗菌因子や損傷組織の修復を促進する細胞増殖因子も含んでいる。ほ乳動物やお母さんが子供の傷口を舐めるのはこのためであり、古くより”唾液は万病の薬”と云われてきた所以である。
 近年、虫歯菌やピロリ菌の感染を予防する為に、お母さんが赤ちゃんに口移しで食物を与えることを非常識とする考えがある。しかし、そのトレードオフとして大切な免疫制御能力を失ってきた可能性がある。大戦後の短期間に過剰な衛生思想が蔓延し、幼少時に経口摂取による制御性リンパ球の軍事訓練に失敗した事が花粉症やアトピー性皮膚炎が激増した一因であると考えられている。
 最近、巷では水素水がもてはやされているが、朝起きて歯磨き前に砂糖入りのカフェオレを飲むと、口腔内の共生菌により大量の水素が産生されて口内が水素ガスで充満される。彼らは口から腸へと移動して大腸にカンブリア的王国を形成し、胃腸が利用できない食物繊維を分解して大量の水素ガスやメタンを産生している。この無臭のガスがおならの主成分であり、便を体外へ排泄する為に不可欠な代謝産物である。便秘がちな女性が食物繊維を好むのはこの為である。便の1/3以上を占める腸内細菌群は、肝臓に匹敵する重要な臓器でもある。
 高齢者では唾液や涙液の分泌が低下するシェグレン症候群が増加してくる。食事をよく咀んで食べることは、唾液分泌を増加させて消化吸収を促進すると同時に免疫能を制御する重要な健康維持法である。キスにはこの様な効果に加え、脳を刺激して内分泌機能を高め、認知症を予防する効果もある。高齢者にもトキメキが健康維持の特効薬なのである。鍼灸マッサージも唾液腺分泌機能や口腔機能を高める事が可能であるが、キスに匹敵する効能が得られるであろうか?

転載:月刊東洋療法253号
公益社団法人全日本鍼灸マッサージ師会

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