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医者いらず健康長寿処方箋(38)

健康科学研究所所長・大阪市立大学医学部名誉教授 井上正康


井上正康先生は、癌や生活習慣病を「活性酸素」やエネルギー代謝の観点と、地球や生命の歴史という大きな視野で研究されている国際的研究者です。現在、多くの府県師会主催の公開講座で講演され大好評を博しています。ぜひ貴師会でも!
 ご連絡は下記URLより。
健康科学研究所HP http://www.inouemasayasu.com/seminar/

「腸内細菌と脳免疫統合系スーパーシステム」

 古くより “腹が立つ”、“腹わたが煮え繰り返る”、“腹の虫が治らない”など、あたかも感情の中枢がお腹に在るかの様な表現が少なくない。“商談は満腹の時に行うべし”とか“腹黒い”や“腹に納める”なども同じ類の表現である。消化管には沢山の自律神経が張り巡らされており、それらの健康状態が精神や感情にも影響する。この為、古くから“脳腸相関”と呼ばれる概念があるが、その科学的実体は不明であった。ヒトの性格や感情の変化には脳内の神経ネットワークやセロトニン、GABA、ドーパミンなどの神経伝達物質が重要な役割を果たす。ではお腹の状態がどの様にして精神や感情に影響を及ぼすのであろうか?
 自律神経系とホルモンで制御されている消化管の蠕動運動は、食物の消化吸収速度や排便をコントロールしている。便は食物中の栄養分を消化吸収した残りカスと考えられてきた。しかし、その中には数百兆個もの細菌が共生しており、その大半は太古の無酸素時代からご先祖様の腸内で脈々と生き続けてきた先カンブリア紀の末裔である。彼らは善玉菌や悪玉菌などと呼ばれているが、これは未熟な医学や人間偏重思想に起因する誤解的命名である。健康の大敵と目の敵にされている悪玉菌もヒトの健康維持に不可欠な役割を担っているので、夫々の代謝特性に応じて醗酵菌、腐敗菌、および緩衝菌と呼ぶべきである。事実、彼らの割合が2:1:7の時が健康な状態であり、悪玉視されている腐敗菌も1割程度は必要なのである。又、日和見菌と呼ばれるのは醗酵菌と腐敗菌の割合が変化すると緩衝菌の割合や種類も変化するからであり、彼らのバランス自体がホストに様々な影響を与えているのである。
 ヒトの性格は千差万別であるが、マウスにも臆病な輩、冒険好きな輩、凶暴で攻撃的な輩など、様々な種類がある。例えば、無菌マウスはストレスホルモンの血中レベルが高く、落ち着きがなくて過剰反応しやすい。興味深いことに、性格が異なるマウスでは腸内細菌叢のバランスも異なっており、彼らの便を交換移植すると性格も入れ代わる事が分かってきた。この事は腸内細菌が性格や感情にも大きく影響している事を意味する。最近の研究により、ヒトでは出生直後に定着する腸内細菌が健康や性格にも大きく影響することが分かってきた。例えば、自然分娩で産まれた赤ちゃんの腸内細菌のパターンはお母さんのものと類似しているが、帝王切開の赤ちゃんでは手術場のスタッフなどの環境細菌が主体となっている。また、帝王切開で産まれた子供では自然分娩の子供より自閉症の発症率が7倍も高いのである。第二次世界大戦前には1万人に1人以下だった自閉症患者が、1960年には2500人に1人、2000年には150人に1人、2010年には68人に1人となり、僅か60年間の間に40倍以上も増加した。この半世紀の間に自閉症の診断基準も多少変化したが、この調子で増加し続ければ2050年には患者が1家族に1人の割合になると予測されている。この為イギリスでは帝王切開で産まれた新生児にお母さんの腸内細菌を含む膣液を舐めさせる予防処置が2016年から始まった。
 腸内細菌は精神状態や脳の病気にどの様に関与するのであろうか?その鍵となる現象として、脳が産生している全ての神経伝達物質を腸内細菌も食物繊維から作る事ができ、その総生産量は脳よりも多い事が知られている。うつ病の発症や治療に重要なセロトニンや報酬系伝達物質のドーパミンはアミノ酸のトリプトファンやチロシンから作られる。便臭の主体であるインドールやスカトールもトリプトファンから作られ、チロシンから作られるアドレナリンやノルアドレナリンと共に腸内細菌自身の遺伝子発現を制御し、彼らの増殖や病原性をコントロールしている。さらに、腸内細菌が産生する短鎖脂肪酸は腸粘膜でセロトニンを増やして多幸感をもたらすと同時に、視床下部下垂体系のACTHを産生誘導して食欲を抑制している。腸内細菌の代謝産物は彼ら同士が相互作用したり脳を制御する為の分子言語として作用しているのである。
 腸粘膜組織はヒトを病原体から守る免疫防御系のフロントラインであり、腸内細菌や代謝産物が免疫系をコントロールする場でもある。事実、食物繊維から生じる酪酸などはTreg細胞を介して免疫系のバランスを制御している。腸内細菌やその代謝産物に応答して免疫細胞が産生するサイトカインは神経細胞のネットワークを再構築するシグナル分子でもある。この様に腸内細菌とその代謝産物は腸粘膜組織の免疫系や自律神経系を制御すると同時に脳機能を無意識下で統合制御するスーパーシステムを形成している。数百兆個もの共生細菌と膨大な代謝系の集合体である便は、脳や肝臓に匹敵する動的代謝制御臓器なのである。現在、腸内細菌を制御する事により自閉症、多発性硬化症、アルツハイマー病、パーキンソン病、およびアレルギー疾患などを予防治療する新たな方法が模索されている。精神や心の状態を無意識下で制御している“腹の虫”としての腸内細菌の全容が明らかにされる日も近い。

転載:月刊東洋療法275号
公益社団法人全日本鍼灸マッサージ師会

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