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医者いらず健康長寿処方箋(47)

健康科学研究所所長・大阪市立大学医学部名誉教授 井上正康


井上正康先生は、癌や生活習慣病を「活性酸素」やエネルギー代謝の観点と、地球や生命の歴史という大きな視野で研究されている国際的研究者です。現在、多くの府県師会主催の公開講座で講演され大好評を博しています。ぜひ貴師会でも!
 ご連絡は下記URLより。
健康科学研究所HP http://www.inouemasayasu.com/seminar/

「母乳の生存戦略」

 学生時代の小児科の講義で「女性の最も美しい表情は赤ちゃんに授乳している時の母の顔である」と名物教授が熱っぽく語っていた光景を今でも鮮明に憶えている。当時は農作業の合間などに畦道に腰掛けて乳飲子に授乳しているお母さんの姿を目にすることも珍しくなかった。その幸せそうな表情を垣間見ながら講義の内容を納得したものである。生活様式や衛生観念が大きく変わった今日ではこの様な光景を見ることはなくなった。
 大きな乳飲子を育てられる母乳は究極の完全食であるが、この豊かな栄養分は細菌にとっても嬉しいご馳走である。ヒトの新生児は大変未熟な状態で生まれてくるので胃腸の機能や免疫系も未発達である。この為、心配症のお母さんが授乳の度に乳首を丁寧に消毒したり、そうする様に指導していた看護師もいた。しかし、昔は授乳後に乳房を手拭などでサッと拭うだけであり、これによりお腹を壊したり下痢をすることもなかった。沢山の子豚が四六時中むしゃぶりついている母豚の乳房などは土や藁などで汚れており、タジタジとさせられる代物である。我が家でもズボラな娘が子供の頃にハムスターを飼っており、シバシバ掃除をサボっては巣箱をスラム化させていた。そんな汚れた環境の中でも母親は乳首に吸い付いた赤子を引きずりながらオガクズまみれで餌を漁っていた。それでも赤子たちは下痢をすることもなくスクスクと育っていた。動物では乳首を消毒する事などありえないのである。ヒトでもエイズなどの特殊なウイルス感染以外では母乳で病気に罹ることはないので、最近では昔の様に消毒せずに授乳する様に指導されている。
 本来、乳腺は汗腺が進化したものであり、“エネルギー価の高い脂汗”を効率良く分泌する為に脂肪組織をリクルートしたモノが乳房である。母乳には乳糖や脂肪などの栄養分に加え、細胞成長因子、IgA抗体、ラクトフェリン、鉄分、エネルギー素材のアデノシンやイノシン、および乳酸菌や130種以上のオリゴ糖も含まれている。赤ちゃんはお腹が一杯になると乳房から口を離して微睡むが、その様子を見つめる母親の乳房は残乳で濡れたままである。残乳が空気に触れると乳糖やオリゴ糖を餌にして乳酸菌などが一気に増殖して乳首の周囲に薄膜を形成する。弱酸性のこのバイオフィルムにはIgA抗体やラクトフェリンをはじめとする様々な抗菌成分が濃縮されており、病原菌から乳首の周囲を守る感染防御壁となる。牛乳がヨーグルトになると雑菌の繁殖が抑えられるのと同じ原理である。乳汁に多く含まれているキサンチン酸化酵素は空気中の酸素とアデノシンやイノシンから活性酸素を産生して病原菌を排除してくれる。この反応で生じる尿酸には強い抗酸化作用があり、乳首や赤ちゃんの柔らかい唇や口腔粘膜を保護してくれるリップクリームにもなる。乳汁中の鉄は細菌の重要な増殖因子でもあるが、ラクトフェリンがこれを結合して強い抗菌作用を発揮する。乳酸菌やビフィズス菌の生育は鉄依存性が低いので、彼らの増殖はラクトフェリンでは阻害されない。この為に母乳を飲んだ赤ちゃんの腸内や便では乳酸菌やビフィズス菌が増えて細菌叢のバランスが改善される。ラクトフェリンは肝炎ウイルスやHIVに結合して増殖を抑えるのみならず、消化管粘膜細胞にも結合してノロウイルスの感染も抑制してくれる。
 月齢により多少異なるが、妊婦は胎児に必要な栄養エネルギーを供給する為に毎日300カロリー以上のエネルギーを余分に摂取しなくてはならない。この為に胎児は妊婦の脳をコントロールし、食欲や食物の嗜好性などを制御している。飢餓や栄養失調が日常茶飯事であった太古の時代には子供が独立可能な3歳まで育つ上で母乳が唯一の命綱であった。乳児を母乳のみで育てるには毎日500カロリー以上のエネルギーが必要となる。母乳には脂肪や乳糖などの直接的エネルギー源に加え、腸内細菌の主食となる食物繊維のオリゴ糖も含まれている。ビフィズス菌やバクテロイデス菌がオリゴ糖の恩恵を最も大きく受け、彼らが腸内にしっかり定住して短鎖脂肪酸などを産生してくれることにより免疫系がバランスよく発達し、乳児が離乳できる様になる。初乳に130種類ものオリゴ糖が含まれているのはその為である。
 母親の愛情を独り占めしていた乳児にもやがて乳房と別れる日がやってくる。乳児が離乳するには胃腸の細胞や腸内細菌が食物を分解処理できる様に環境を整えなければならない。この為に消化の悪い食物を母親が良く噛んで粥状にしてから赤ちゃんに与えていた。親が食物を口移しでヒナに与える光景は海鳥や皇帝ペンギンなど、多くの動物で知られている。ヒトでも母親が口移しで離乳食を与えるのが基本であった。終戦直後の食糧難の時代に育った私も母から口移しで離乳食を貰っていたと聞かされている。今日の様に瓶詰めに入った栄養豊富な離乳食が無かった時代にはそれが当たり前であった。この際には噛み砕かれた食物と一緒に母親の口内細菌も赤ちゃんに取り込まれることになる。これは母親の共生細菌を子供に継承する大切な無意識的行為であった。しかし、衛生思想が過剰な今日の先進国では虫歯菌やピロリ菌の感染源になるとのことで推奨されなくなり、口移し離乳食は絶滅状態である。
 出産直後に形成される新生児の腸内フローラは大腸菌や腸球菌が主体であるが、授乳開始後に大きく変化していく。母乳により腸内でビフィズス菌などが増殖し、大腸菌などは1週間以内に約1/100以下に抑制される。母乳でシッカリ育てられた赤ちゃんでは喘息やアレルギー、肥満や糖尿病などに罹るリスクが低くなることが判明している。一方、人工乳の赤ちゃんでは主に大腸菌、バクテロイデス菌、クロストリジウム菌、ベイロネラ菌などが増殖し、離乳期にはバクテロイデス菌やクロストリジウム菌などが多くなる。何をしても泣き続ける赤ちゃんには“疳の虫が居る”と言われてきた。この様な赤ちゃんの腸内細菌叢は帝王切開で産まれた赤ちゃんのパターンに類似しており、ビフィズス菌やラクトバチルス菌が少なくて多様性が乏しい。忙しい現代では生後6ヶ月間は母乳のみで育て、その後の6ヶ月間は母乳と離乳食を組み合わせて育てるのが次善の策とされている。便や腸内細菌は汚いものと誤解されているが、最近ではそれがヒトにも不可欠なパートナーであり、健康や精神活動にも大きく関与していることが明らかになりつつある。
 成人ではミルクを飲むと腸内で大量のガスが発生して下痢や腹痛を起こす乳糖不耐症が知られている。世界の成人の65%以上が小腸で乳糖を消化吸収できない乳糖不耐症である。乳糖は小腸の消化酵素ラクターゼで速やかに分解されて乳児の重要なエネルギー源となる。ラクターゼ遺伝子は離乳する頃には不活性になり、小腸で乳糖を分解できなくなる。この為に離乳後は乳糖が大腸にまで届いて腸内細菌の餌となり、一気に大量の炭酸ガスが生じて蠕動運動を刺激する。この様な不快症状がなければ幼児は何時迄も母乳を飲み続けることになる。それでは母親は食料の調達に出かけられず、次の子供を身籠ることも叶わない。栄養豊かな脂肪を含む母乳は乳児の命綱であるが、大人にとっても優れたエネルギー源となりうる。その為、厳しい飢餓の時代には乳児は食糧争奪戦から簡単に排除されてしまう。乳糖不耐症は乳児の主食を成人に争奪されない為の遺伝子継承戦略なのである。ミルクを発酵させたヨーグルトには乳糖が無いので成人が飲んでも下痢や腹痛は起こらない。乳汁が食糧の主材であった遊牧民などでラクターゼ遺伝子が不活化されない変異が生じ、ミルクを飲める成人集団が広がっていった。この様に母乳には生命を継承する為の様々な戦略が内蔵されている。現代では多様な人工乳が開発されているが、哺乳類が数千万年かけて進化させてきた母乳には現代医学が未だ知らない多くの財産が隠されている。

転載:月刊東洋療法284号
公益社団法人全日本鍼灸マッサージ師会

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